TOP > 月例研究会 > 2025 > / Last update: 2025.10.28
明治34年(1901年)に出現した二つの索引、すなわち和歌索引である『国歌大観』と、散文索引である『日本随筆索引』は、日本の索引史において、近代的索引としての大きな足跡を残した。そこで、その出現の背景と、そこに見える思想を分析し、索引をめぐる文化史的な位置づけの再確認を行い、改めてその意味を考えてみたい。なお、この発表は当人の博士論文『書物「発見」の文化史的考察』(総合研究大学院大学、2024年、乙第289号、博士(文学))の一部を取り上げたものとなっている。
江戸期の出版業のあり方を見ると、寛永年間(1624-1644)から元禄年間(1688-1704)へと時代が進むにつれて、急速な成長を遂げていた。そのような中で、本邦独自ともいうべき、二つの類型の索引が出現する。一つが、和歌索引たる「類句」。もう一つが散文索引たる「類標」である。類句は寛文6(1666)年に刊行された『古今類句』が嚆矢とされる1。京都の蒔絵師であった山本春正によって編まれた同書は、二十一代集、六家集に該当する各歌集のほか『拾遺愚草員外』、『新葉和歌集』、『伊勢物語』、『大和物語』、『源氏物語』、『狭衣物語』などに掲載された和歌の第四句を「いろは順」で配列して検索できるようになっていた。
一方の類標は古来よりの文学作品や歴史書などを対象に、主要な語彙を検索できるようにしたものであるが、これら二種類の索引をめぐる環境や同時代の人々の認識には大きな違いが見られた。
そもそも江戸期の学問観においては、天野敬太郎が指摘するように博覧強記を是とし、索引を「学問の邪道」とする意識があったとされる2。そのため『国史大辞典』で「大部分は未刊のままに終ったので、広く一般に利用されるには至らなかった」と延べるように3、ほとんどの索引が出版されず、私家的な利用に留まったとするのが定説であった。
しかしながら、国文学研究資料館の「国書データベース」を用いて改めて調査を行ったところ、類標については確かに写本が中心であり、広く普及したとは言い難い状況であったが類句、とくに『古今類句』は刊本として一定程度人々の中に普及し、受容されていることが判明した。すなわち類句については、これまでの定説を覆す様相を呈していたことになる。
興味深いことに、類標ではわずか1割の著作に著者名が記される状況にとどまっていたが、類句では7割の著作が著者名を明記している。そもそも最初の類句とされる『古今類句』においてすら、山本春正の名が見られるが、これは『古今類句』に山本が何ら恥の意識を有していなかったことを示していよう。おそらくは、それまでも存在していたテーマ別に和歌を整理した「類題和歌集」の延長線上にある存在として、山本は『古今類句』を認識していたのではないか。それゆえに、山本は『古今類句』を自らの誇るべき実績であると認識し、積極的に記名・刊行を行ったのだろう。
本邦では、明治2(1869)年に、本木昌造が作成した金属活字による活版印刷が開始されたが、一方で、江戸期からの出版文化を引き継ぐように、和装本の出版は継続されていた。当然のことながら維新の直後より、明治政府は西洋から近代的な法律や行政手法などを積極的に取り入れていたが、そのような状況を反映するかのような索引が姿を表した。たとえば『明治七年司法省日誌索引』は、金属活字を用いた活版印刷による和装本の索引であり、位置情報は「丁数」で表現される和洋折衷ともいうべき索引であった4。
金属活字は、明治10(1877)年の西南戦争の報道需要を契機として、急速に普及した。かくして、明治20年代の初めには、古典的文学作品や歴史資料などを網羅する大規模な金属活字の叢書が出現するに至った。たとえば明治23(1890)年に、吉川弘文館の創業者である「吉川半七」が個人名で刊行を開始した叢書『百家説林』(洋装本)や、明治24(1891)年に博文館から出版された『温知叢書』(和装本)は活字本であることの読みやすさもあり、広く普及した。これらの叢書の存在は、それらを検索するための索引の必要性を強く意識させることとなった。
そのような中で出現したのが、類標の語彙や体裁をそのままに、活字本向けに再利用した「索引」の事例である。たとえば明治29(1896)年出版の『校訂増補吾妻鏡』では、江戸期の『吾妻鏡類標』を索引として付し、『校訂増補吾妻鏡』の丁数と、かつての版本の丁数を( )で併記することで、利用者の便を図っていた5。
明治30年代初頭には、国文学の研究者の中で、国書の索引の必要性を訴える動きが出現した。たとえば明治31(1898)年公刊の松井簡治の論考「國書の索引」では、博覧強記を明確に否定し、「索引によりて無益の勞を省かんとする」ことの必要性が述べられている。また『古今類句』が「往々坊間に見えて今猶反故同樣の價ならず」と扱われる現状を嘆くなど6、同論考の記述は索引の価値が認識されていない世相を強く意識させる。
東京帝国大学附属図書館の和田萬吉は明治30年(1897)6月19日に神田錦町三河屋で開催された日本文庫協会(現:日本図書館協会)の第5期第1(春季)例会において「索引の必要並に外國に於ける索引事業の状況」と題して講演を行っており7、松井の論考での言及と同時期に、図書館員の間でも索引への期待が高まっていたことがわかる。
明治34(1901)年12月に出版された『国歌大観』は江戸期の類句の流れを汲む和歌索引である。国文学者である松下大三郎、渡邊文雄、大川(天野)茂雄らによって編纂された。『国歌大観』は、索引部と歌集部からなっており、索引部で和歌の検索を行い、その結果を以て歌集部を参照するという形式となっていた。特筆すべきはその検索機能で、和歌の五句すべてを五十音順で引くことができた。収録した歌集は『古今類句』を遥かに凌ぎ、53種に達していたほか、全ての和歌に固有の番号(国歌大観番号)が振られたことが画期的であった。
『国歌大観』では「歌集部は信據すべき原本を取り、異本を參考して嚴密に校訂し、漫りに私見を以て改めず、他本異なる所あるものは註して「何々イ」とし、原文解し難きものは「如原」とし、誤謬と認むべきものは「何々歟」とす」という方針が示されていた8。すなわち歌集部を一定の定本的存在として扱うものの、他の異本などへの参照を導くことで、それらを吸収できるようになっていた。国文学者が構築した索引として、異本の存在に十分配慮して編集されたことがわかる。
『国歌大観』の出版予告には奇妙な点がある。たとえば明治34年(1901)年10月2日の『読売新聞』の発売予告記事では、その名を『和歌大観』としているほか、本居豊穎、木村正辭、井上頼圀という監修者の名を記載するも、編者である松下大三郎らの名に触れていない9。実のところ、出版までの3ヶ月の間に『和歌大観』の名が『国歌大観』に変更されたのは、監修を担った本居豊穎の強い意向の反映であった10。また同書は著名な書肆ではなく「川合松平」という、それまで出版に関わったことのない個人が出版を担ったが、鈴木行三によればその要因は、「採算上の懸念」と編者の「不評判」にあったとする11。あるいは、『読売新聞』の発売予告記事に編者の名が記載されなかったのも、この「不評判」によるものかもしれない。
なお国会図書館蔵の初版は、内務省に検閲のため納本された「内交本」であるが、そこには出版日の訂正や、編者の住所記入が手書きでなされており、出版の直前まで様々な紆余曲折が生じていた状況を伺うことができる12。
『日本随筆索引』は、明治34(1901)年9月に出版された。同書は帝国図書館(前・東京図書館)司書の職にあった太田爲三郎により編集された散文索引であり、江戸期の類標の後継ともいうべきものである。和田萬吉の他序を有し、収録対象となった随筆は164種、索引語は五十音順での排列がなされ、総数は1万6000に及んでいた。
「定本」にこだわった形跡はない。後の増訂版では、国書刊行会の活字本を底本としたことについて「是は假令何程良い本でも、唯一部しかない帝國圖書館本等をとるよりも、遙に此方が世間には便利であると信じたからである」とし13、太田が質よりも利便性を重視する傾向にあったことが伺える。
波多野賢一によれば、同書は明治30(1897)年頃には完成し、図書館内で閲覧に供されていたとする14。明治30(1897)年は、東京図書館から帝国図書館への改組の年であることに照らせば、同書は東京図書館時代の末期に編集された可能性もあろう。なお太田の言では「出版したならば可からうと、友人連が頻りに勸誘し、結局、和田萬吉山田安榮諸君のお世話で東陽堂から出版された」とあるので、当初は出版を念頭においていなかったこともわかる。とはいえ「書肆もあまり賣れない物と見たらしく、僅五百部位しか印刷しなかつた」ほか、再版を念頭とした「紙型」の作成すらもしていない。明らかに出版者の東陽堂は同書の出版に乗り気でなかったことがわかる15。これは『国歌大観』が川合松平という個人の出版になった「採算上の懸念」に重なるものであり、「索引は売れない」という意識が、当時の書肆において広く共有されていたことの現れであろう。
<『国歌大観』と『日本随筆索引』は、書肆の懸念とは裏腹に旺盛な需要を喚起した。『国歌大観』は明治40(1907)年に大日本図書が版権を獲得したことで、ようやく供給を満たせる状況となった。歌人の斎藤茂吉は「明治四十年ごろ」に譲り受けた『国歌大観』を「常に身邊を離すことの出來なかつたもの」として形容する16。また明治42(1909)年には、東京を中心とした都市部の旧制中学校で、『国歌大観』を図書室に備え、国語教育に活用することが常識になっていた可能性を伺わせる記録も残されている17。
『日本随筆索引』は、再版のための紙型がなかったゆえに、初版からまもなく絶版となったが、太田によれば、その古書は定価の20倍の値で取引されており、しかも「容易に手に入らなかつた」という。底本となった『温知叢書』や『百家説林』が、市中に多く出回っていたことや、当時の国文学者や読書人に評価されていたことの現れであろう。
『日本随筆索引』の品薄感は大正15(1926)年に、岩波書店から増訂版が刊行されることで、ようやく収束を見たとする18】。詩人の生田春月は、昭和2(1925)年の文章にて『日本随筆索引』を、江戸期の随筆という「雜多な斷片的知識の倉庫」を扱う「苦心の好著」であると形容していた19。一方で、学者や読書人の中にはこれら索引そのものを評価しても、その作成者については冷淡な態度を見せるものも存在していたことは、注目すべきであろう。
『国歌大観』と『日本随筆索引』は、明治末期の出版界の「索引は売れない」という印象を覆すかのように、学者や読書人などの間で受容されていった。一方で、これら「国書の索引」が受容され、その必要性が認識されていたにも関わらず、本邦では索引の作成者に対して評価が一定しない状況が見られた。これは索引とその作成者を等しく評価する西洋とは異なる傾向である。改めてその理由を斟酌すれば、本邦での近代的索引の受容が、西洋における文化的、社会的あるいは宗教的背景と切り離されていたことが挙げられよう。索引の実用的な側面からの評価は進んでも、その本質を構成していた西洋的な索引観が、本邦の伝統的な索引観を上書きするような状況にはなり得なかった。言い換えれば、江戸期からの「恥ずべきもの」という索引観を十分に払拭できなかったことが、このような事象を生み出したのであろう。
以上の発表を受けて、江戸期における索引には、戦後における「文系」と「理系」のような学問的な立脚点の対比の反映などはなかったのか、あるいは「雑誌記事索引」と「巻末索引」の索引としての差異をどう捉えるのか等の質疑があった。
なお、今回の月例研究会については、Zoomの映像を録画し、開催後一週間に限り、出席を申し込んだものの欠席された方にも映像を配信、ならびに資料の配布を行った。
(記録文責:飯野勝則)