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情報組織化研究グループ月例研究会報告(2021.07)

「クラスとしての実体、記号としての表現形」

千葉孝一氏


日時:
2021年7月17日(土)14:30〜16:20
会場:
(Zoomミーティング)
発表者:
千葉孝一氏
テーマ:
「クラスとしての実体、記号としての表現形」
出席者:
荒木のりこ(大阪大学)、石田康博(名古屋大学法学部アジア法資料室)、石村早紀(株式会社樹村房)、今野創祐(京都大学)、牛尾響(国立国会図書館)、大野綾佳、倉本優子(元福岡女子短期大学教員)、佐藤久美子、田窪直規(近畿大学)、長瀬広和、中道弘和(堺市立図書館)、福田一史(大阪国際工科専門職大学)、光富健一(情報科学技術協会)、宮川創(京都大学大学院文学研究科附属文化遺産学・人文知連携センター)、三輪忠義(東京大学駒場図書館)、森原久美子、和中幹雄、他3名、千葉<21名>

 まず初めにこれまで発表者が発表した論文との関連が説明された。本日の主な発表内容は、雑誌『メタデータ評論』に掲載した論文におけるオントロジーに関連した内容の続きとなる。
 前半は「クラスとしての実体」に関する議論が提示された。LRMはオントロジー化されたFRBRといえる。溝口理一郎の主張に基づくならば、オントロジーにはHeavy-weight ontologyとLight-weight ontologyの2種類が存在する。前者はそもそも「何を表現すべきか」を問題にするものであり、後者はどのように表現するかを問うものである。LRMは(後者寄りだが)両方に跨っている。
 溝口の主張する「クラス」概念は、その概念が(表現言語の枠を越えて)本質的に「クラス」になり得るかどうかを問うときの「クラス」概念である。
 isA階層とは、生物分類におけるヒト科と霊長目の関係のような、下部から上部への関係である。ネコ科は(霊長目と「互いに素」の関係である)食肉目の下部階層であり、ヒト科とネコ科双方に属する猫娘は存在しない。
 IFLA LRMは次のように述べている。  「isA」階層によって関連づけられる実体を除き、モデル内の実体が互いに素(disjoint)であることを宣言する。この分離は強い制約であり、互いに素である実体がこれら複数の実体に同時に属するインスタンスをもてないことを意味する。この分離の結果、あるものが個人のインスタンスと集合的行為主体のインスタンスの双方になることができない、といったことが議論になることはほとんどない。
 しかし、「まったくない」わけではない。その事実に関する詳しい説明はなされていない。IFLA LRMは続いて、以下のように述べている。
 一方、あるものが体現形(セットである抽象的実体)のインスタンスと個別資料(具体的な実体)のインスタンスの双方になることができないということについては、理解するのに少し考慮が必要である。存在しているのはただ1つの物理的オブジェクトであり、その体現形としての性質が考慮されているのか、それとも個別資料という側面に焦点が当てられているのかによって、オブジェクトを異なった側面から見ていることになる。
 しかし、この箇所にも「もう少し」詳しい説明が必要だろう。
 LRMのクラス階層は3層構造になっている。例えばC個別資料(冒頭の「C」は「クラス」を意味する。以下同じ)とC体現形は「互いに素」の反例候補である。具体的には、C個別資料に「『山羊の歌』初版177番本」が属し、それがC体現形の「『山羊の歌』(初版)」にも属しているというケースである。
 また、C個人にジョン・レノンが属し、C集合的行為主体に(レノンが属する)ビートルズが属することも「互いに素」の反例候補である。
 しかし実際にはこれらの疑問は妥当ではなく、反例とはならない(猫娘はいない)。これらの論理について理解するためには「クラス」と「集合」という概念の整理が必要である。
 溝口によると、クラス化できる集合とできない集合がある。溝口によると、個別の木・個人は本質で集合「木」「個人」に属しているため、C木、C個人としてクラス化できる(以後、e集合と表記)。一方、個別の木・個人が集合「森a」「ビートルズ」に属しているのはただの偶然で、それぞれの偶有的性質に過ぎないため、「森a」「ビートルズ」はクラス化できない。
 ジョン・レノンがビートルズのメンバーであることはジョンの本質ではない。仮にビートルズのメンバーでなくても、ジョン・レノンはジョン・レノンである。ビートルズは森(グループ)であり、個別の木(メンバー)はたまたまそこに生育(所属)しているだけである。よって、ビートルズはクラス化できない。
 ジョン・レノンの本質(の一つ)は「人間(ホモ・サピエンス)であること」である。その為、本質によるe集合「個人」はビートルズと違い、クラス化できる。
 クラス概念はラッセルのパラドックスに由来する。「自分自身を含まない、すべての集合の集合」は矛盾する。「すべての集合の集合」も問題が生じる。パラドックスを回避する、集合にはならないクラスとは何か。クラスとは集合から外延を切り離し、内包(性質)を独立されたものである。クラスは集合とは違い、外延(要素)を包含しない。
 この考え方に基づいて、LRM-E8での「集合的行為主体」の定義や、LRM-E7での「個人」の定義を理解することができる。C「個人」は本来、e集合だが、IFLA LRMではクラスとなる。e集合の場合、クラス化によって包含枠が消滅しても、インスタンスを特定できる。e集合は要素と内包が本質によって結ばれている為、内包(本質)だけでインスタンスか否かを特定できるからである。本質による集合であるホモ・サピエンス(種)は、要素=インスタンスを特定できる。つまり、「個人」=e集合はクラス化できる特殊な集合なのである。
 だが、ベルリン・フィル(集合的行為主体=集合)の内包だけではインスタンスを特定できないし、ベルリン・フィルのメンバーであることが本質である対象(個人)も存在しない。つまり、個別の集合的行為主体(集合)は、クラス化できない集合なのである。
 まとめると、個人は本質によるe集合を形成するため、クラス化可能であり、e集合と互換なC個人(クラス)となる。一方、個別の集合的行為主体は単なるグループであり、偶有的性質による緩い包含であるため、クラス化不可能となる。C集合的行為主体は、個別の集合的行為主体をクラス化したものではなく、個別の集合的行為主体(個々のグループ)すべての集合をクラス化したものである。クラスであるC集合的行為主体は内包しかないので、インスタンスである個別の集合的行為主体(例えばビートルズ)のメンバー(外延ジョン・レノン)を包含しない。従ってC個人とC集合的行為主体は互いに素となり、ビートルズとレノンは互いに素の実体となる。
 同様にC個別資料とC体現形は質の異なるクラスとなる。個別資料は本質によるe集合を形成するため、クラス化可能となり、e集合と互換なC個別資料(クラス)となる。一方、個別の体現形(集合)は偶有的性質による緩い包含であるため、クラス化不可能となる。C体現形は、個別の体現形をクラス化したものではなく、体現形すべての集合をクラス化したものである。クラスであるC体現形は内包しかないので、インスタンスである個別の体現形(例えば「『山羊の歌』の初版」)の外延要素(「『山羊の歌』初版177番本」)を包含しない。従ってC個別資料とC体現形は互いに素であると言える。
 C個別資料とC体現形が互いに素であることに関する先のLRMの説明は以下のように言い換えることができる。存在しているのは「ただ1つの物理的オブジェクト」であり、それがC個別資料のインスタンスとなる。一方、C体現形のインスタンスは「ただ1つの物理的オブジェクト」ではなく、それが持つ記号のキャリアとしての偶有的性質である。
 LRM-E5によると個別資料の定義は「知的・芸術的内容を伝達するよう意図された記号(signs)を収めて運ぶ(carrying)1つまたは複数の対象」である。しかし、個別資料の本質とは何だろうか。個別資料とはビールの空き瓶のようなものと考えられないか。本・CDを例としている限り、コンテンツと切り離して考えることは難しい。ビールの空き瓶それ自体を個別資料と考え、ラベル(ビール名)を貼る行為を体現形の創出と考える。充填されるビールをコンテンツと考えるのだ。個別資料とは「物理的オブジェクト」であり特定の空間を持続的に占有するモノである(形や材質は体現形の属性である)。瓶ビール(キャリア)に何ビールが入っているかは、ジョン・レノンがビートルズのメンバーだったことと同様、単なる偶然である。どういうラベル(=体現形)がついているかも、偶有的性質である。(デジタル・アイテムは例外である)
 後半は「記号としての表現形」に関する議論が提示された。LRM-E3によると、表現型の定義は、知的・芸術的内容を伝達する個別の記号の組み合わせとなっており、「記号」という用語は、ここでは記号学(semiotics)で用いられている意味であることを意図している。Semioticsとはパース等の英米系記号学を意味している。(semiologyはソシュール等の大陸系記号学を意味する)LRMはSemioticsをバックグラウンドとしていることがわかる。
 パース記号論は解釈項、記号、対象の3項関係の上に成り立っているが、これを記号と対象の2項関係に改造する。英米記号学における「意味論」に近い考え方で、記号=対象の代わりとするのである。パースの議論は難解なので、必要となる部分を適宜抜き出し、改変しながら考えを進める必要がある。
 パースによる記号の3分類がある。詳細は以下の通りである。

 ここで二つの見方がある。「類似記号・指標記号・象徴記号は相互に異なっているが、同じ「記号」である」という見方と「類似記号・指標記号・象徴記号は皆「記号」ではあるが、異なる原理に基づいている」という見方である。発表者は後者の見方を支持する。しかし、LRMは前者の見方を支持し、危ない橋を渡っているように見受けられる。以下、問題を二つ挙げる。
 一つは、表現形は抽象的対象であるという考え方である。LRM-E3 スコープノートによると、表現形は、それを記録するために使用されるキャリアとは異なる抽象的な実体である。言語記号・音楽記号=象徴記号は抽象的な対象であるが、造形芸術(絵画・彫刻等)=類似記号は抽象的な対象だろうか。そもそも絵画の場合、文字芸術のようにコンテンツとキャリアを分離できるかどうか自体が大きな問題となる。
 もう一つは記号の反復可能性についてである。パースによると、表意体の存在様式で大事なことは、表意体は反復可能だということである。言葉は反復され、無数の同じ言葉としてこの世に姿を現す。しかし一点物の絵画の反復とはなんだろうか。記号学の原理原則に反するケースがあるように見受けられるが、LRMはこれらをどう処理しているのだろうか。
 LRMが具体例として挙げている「Voice of fire」のケースを見る。
著作  :{Barnett Newman's Voice of fire}
表現形 :
体現形 :キャンバス地にアクリル画、Barnett Newmanによって1967年に描かれた画 [単体の体現形]singleton
個別資料:キャンバス地にアクリル画、Barnett Newmanが1967年に描き、1989年からthe National Gallery of Canadaが所蔵している画
表現形は空白であり、絵画の表現形=記号とは何かは明記されていない。体現形は単集合(唯一の要素からなる集合)である。個別資料には体現形と同じ情報が重複して含まれており、本来は所蔵だけが個別資料の性質である。
 次に「考える人」のケースを見る。
著作  :{Auguste Rodin's The thinker}
表現形 :鋳造職人(fonderie)Alexis Rudierによる1904年の拡大バージョン(※鋳型のことと思われる)
体現形 :
個別資料:青銅の鋳造物、フランスのパリにあるロダン美術館が1922年から所蔵、ID番号S. 1295
表現形の「鋳型」は音楽における楽譜に相当するが、それは鋳造作品に限定される。彫像(大理石などを彫る一品物の作品、例えばミケランジェロの「ピエタ」)の場合は、鋳型がないので、絵画と同様の問題が生じる。体現形が空白なのは鋳造権の問題などもあり、表記が難しかったためと思われる。
 キャリア=物理基盤とコンテンツ=著作、表現形との関係については、利用者の(現時点の)多数派意見は以下のようになると考えられる。一点物の造形芸術の場合、キャリアと著作と表現形はすべて固定されている。楽譜などの象徴記号芸術の場合、著作が様々な表現形に分かれ、さらにそれらが様々なキャリアに枝分かれしていく。末広がりに分裂していくイメージである。
 象徴記号芸術における表現形は反復可能性のある記号だが、一点物の造形芸術における表現形には通常、反復可能性はないと考えられているため、なんらかの反論を考える必要があるがそのような反論があるのだろうか。興味深いことに分析哲学者の中にはあると主張する人々がいる。SF的な発想であるが、一点物の造形芸術のキャリアを(例えば分子レベルで)完全にコピーできる可能性がある。現在の技術では不可能であるが、将来的には、例えばモナ・リザを分子レベルでフルコピーできるようになる可能性は確かにあるように思える。勿論、フルコピーされたモナ・リザをモナ・リザとして認めるか否かは問題だが、一点物の造形芸術が反復可能であると主張する方法が絶無というわけではないことは確かである。
 ネルソン・グッドマンは『芸術の言語』(1968年)で以下の指摘をした。絵画はオートグラフィック芸術=オリジナルのみであるが、音楽・言語はアログラフィック芸術=「同じ」作品が多数であるという指摘である。LRMはアログラフィック芸術に適したモデルであり、オートグラフィック芸術への適用は問題が残ると思われる。

 以上の発表を受けて、LRMは(無矛盾であれば)現世利益を目的としたものであるためこのような分析がなじむといえるのか、もともとLRMは基本的には図書館に置ける出版物を意識したものではないのか、発表中の内包・外延、Heavy-weight ontology・Light-weight ontologyの定義は妥当か、クラス及び集合の発表における定義は何か、オントロジー工学の手法がFRBRの背景になっているのではないか等の質疑があった。

 なお、今回の月例研究会については、Zoomの映像を録画し、開催後一週間に限り、出席を申し込んだものの欠席された方にも、映像を配信した。

(記録文責:今野創祐)